名古屋体験記 -初日のできごとー
それは1988年春に遡ります。当時私はNYUの学生でしたが、NYUの野呂教授が私に“デビッドさん、もし日本語を真剣に勉強したいのなら、実際に日本へ行って勉強すべきです。南山大学にはすばらしい日本語プログラムがあると聞いています”とアドバイスしてくれました。その言葉は私が知りたかったことの全てでした。というのも当時の私は週2回の日本語クラスを取得していただけで、日本語が上達するには程遠いものだったからです。クラスでは漢字が多く使われ、話すことはもとより読み、書きは全くといっていいほど理解できないままの状況でした。
日本行きを決心した私ですが、フライトは日本航空で名古屋へはニューヨークから成田を経由して乗り換えなく行くことができました。今でも記憶にあるのですがそれは1988年8月のことで、他の乗客が飛行機から降りるとき、名古屋とはどんな所か瞑想していました。到着前の私は名古屋は“日本の中西部”にあると聞かされており、当時の私は何となくアメリカの“Wild West”という強い田舎のイメージを持っていました。
名古屋で私を出迎えてくれたのは、ホストファミリーのイナギさん夫妻でした。旦那さんは到着ロビーにて私の名前が書かれたサインボードを掲げて待っていました。そのサインには“Sindell”ではなく”David Shindell”とミススペルで書かれていたことに気づきましたが、私のホストファミリーは彼であり、そのサインは私のことを意味していると直ぐに分かりました。旦那さんは細めの体形で丸い眼鏡をかけ、今にも頭から落ちそうなカツラをかぶっているのが分かりました。また驚いたことに彼はネクタイの変わりに紐ネクタイをしており、その姿はまさに1950年代の西部映画に出てくるような格好でした。そのような格好をする人はニューヨークでは珍しいものでしたが、イナギさんは明らかに西洋文化の知識を前面に示そうとしていのが分かりました。特に彼と最初に会ってからの最初の2時間は彼がなぜカツラをかぶっているのかという思いでいっぱいだった事をいまでも良く覚えています。彼は日本語で私に挨拶し、私もまた日本語で“こんにちは”そして私の名前を言いました。日本語を勉強して一年がたったころでしたが、この最初の挨拶の1分間がそれまでの自分の中で最も日本語をうまく使うことのできた瞬間でした。それから彼は私に日本語で何か言っていましたが、何を言っているのか良く分かりませんでした。彼の日本語は何か変で、全ての言葉の端々に“あのね”という言葉が付き、話す時は少し口を開け、歯の隙間からは空気が抜けるような歯擦音を発していました。正直、日本語に苦労していた当時の私にとっては大変欲求のたまる話し方でした。その後、私たちはそのまま彼の車へ向かいました。その車の大きさはアメリカで見るその大きさとは比べ物にならないほど小さいもので、私は運転席のほうへ座ろうとしました。そんな様子を見たイナギさんは笑い、直ぐに日本とアメリカの車では運転席と助手席が逆であると気づきました。その後イナギさんは西洋スタイルの歓迎として、15時間以上のフライト後、空港からそのまま、彼の住んでいた日進町からはさほど遠くないアメリカンスタイルのステーキハウスへ連れて行ってくれました。ただそのステーキハウスの外見はいかにも西洋風であった一方で実際に中に入ってみると何か違いました。テーブルや椅子のサイズはアメリカのそれと比べると半分程の大きさでした。私は決して小さな体形ではなく、アメリカでも大きい方の体形で、その時はうまく椅子をずらして何とか対処することができました。その後ウェイトレスが日本語のメニューを持ってきてくれました。もちろん私はメニューの文字など読むことなどできませんでしたが、幸運にも写真が載っており、サイズについても100グラム、125グラム、150グラムと書かれてありました。アメリカではステーキのサイズはパウンド表示なのですが、当時の私は1グラムが何パウンドに相当するのか分かりませんでした。しかしイナギさんが何とか説明してくれ、結局一番大きい150グラムのものを注文するよう薦められました。その後、注文の際、ウェイトレスが付け合わせはパンにするかライスにするか聞いてきました。それを聞いた私はステーキハウスで日本の米だなんてとおかしくなり、結局パンを注文しました。数分後パンが出てきましたが、ほんの二口で食べ終わってしまいました。その後、パンの追加があるかと思っていましたが、二度と追加が来ることはありませんでした。更にその後、遂にステーキが来ました。しかしその大きさはアメリカのそれと比べると半分ほどの厚さで、ゴムのような食感でした。この150グラムの肉がこんなに小さくて硬いとは思いもよりませんでした。イナギさんは私を見て大丈夫か伺う様子でしたので、私は何とか満足な表情で笑って答えました。イナギさんの奥様に対し私は“お母さん”と呼ぶように言われていたのですが、笑っている時以外は常時しかめ面な表情の方でした。表情もそうですが、彼女に対する最初の印象はとても小さいということでした。身長はおおよそ4フィート10インチほどで、ステーキハウスでは面白いことに椅子の上で膝をまげて座っているようでした。いわゆる正座をしていました。私はなぜ彼女がそのようなすわり心地の悪い体勢で食事をしているのか全く理解できませんでした。食後イナギさん宅へ戻り、私よりも4歳ほど年上のフミエさんという娘さんを紹介されました。その時私は救われた気持ちになったのですが、彼女は私に英語で挨拶してくれました。ただ直ぐに気づいたのですが彼女の英語は初歩レベルで、彼女とうまく会話するためには日本語でなければ結局駄目でした。その後私が家に入った時、そのまま中に入ろうとしたのですが、お父さんに止められ、“靴!!”と言われました。その時、私は家に入る時は靴を脱がなければならないものだと教えられました。私はお母さんが靴を脱ぎ、一段上にあるスリッパをうまく履いて家に入った姿を見て、正しい、家への入り方を学びました。いわゆる玄関からの家への入り方です。彼女は冷たい玄関床に触れることなく靴を脱ぎ、スリッパを履きましたが、私はやろうにもそのようなことはできず、結局床に一度足を着き、スリッパを履くことになりました。私の足は決して大きくはないのですが、恐らく一般の日本人の足のサイズよりは大きいであろうと感じました。なぜなら私の履いたスリッパではその端からかかとが約2インチほど出てしまっていたからです。次の日お母さんが外人サイズの大きなスリッパを買ってきてくれました。もしそれがなければ恐らく見た目がだらしなく、歩くのにとても痛々しい思いをしていたことになったでしょう。イナギさん宅は2階建てで、私の部屋は2階に用意されていました。階段はらせん式で、何とか私が上って通れるほどの幅でした。その2階の部屋ですが伝統的な日本の寝室で、ベッドはなく畳部屋に机があるだけでした。私はその時、果たしてベッドなしで眠ることができるだろうか心配になりました。ただ事前に日本にもベッドがあると聞いていたので少しは気持ちの準備はありました。その後お母さんがやってきて、“デビッドさん、バスは?”と聞いてきました。最初私は初日のこの日にバスに乗せ、家から追い出そうとしているのかと思ってしまいました。しかし直ぐにお風呂に入りたいかどうか尋ねていることが分かり、そして私はハイと答えました。私は腰に巻くには充分ではないお尻が半分ほどしか隠れない大きさのタオルと小さめのハンドタオルを受け取り、この家の1階に1つしかない風呂場に行くことになりました。ただその前に私はトイレに行きたかったのでトイレに入りました。そこで私が目にしたのは長めの溝に何だか半円状のようなものがその先端についている変な物体でした。後から分かったのですが、それはいわゆる和式の便器についている“金隠し”と呼ばれるものでした(文字通り金を隠すという意味です)。金とはゴールドのことで、日本語では睾丸とも言われ俗に“金玉”と言われています。私はゴールデンという意味については理解することができましたが、金隠し自体何も隠していないのになぜ金隠しと呼ばれているのか未だに分かりません。とにかく私は便器の方で無事小便を済ますことができました。ただ大便の方については使い方がさっぱり分かりませんでした。その上に座るのでしょうか?どっちを向いて座るのでしょうか?そんなことを考えている間、同時に便器の水をどうやって流すのかも考えレバーの在りかをあちこち見渡しました。レバーと間違って電気を5回程つけたり消したりしてしまいましたが、ようやく便器の上にあった鉄製の紐を見つけ、その紐を引き、便器に水を流すことができました。それは私の最初の勝利の瞬間でした。その後私は風呂場のほうへ進み、深さが約4フィートの小さな風呂を見つけました。親切にも私のために風呂にはお湯が溜められていました。私はとても疲れ、体も大変汚れていたのですが、すぐさま服を脱ぎ、足を風呂に入れましたが私の人生においては大変ショッキングなことに風呂湯が沸騰していました。その時私は、もしそのまま風呂につかったら半ゆでにされ、レストランに出されるのではないかと思ったくらいでした。結局水を5分ほど入れ、何とか湯船につかることができました。しかし入った瞬間お湯があふれ出し、そのお湯がきちんと排水口に流れ出るまでは、家中が水浸しになるのではないかと焦ってしまったことを今でも覚えています。私は湯船の中にて石鹸で体を洗い、シャンプーをし、そのまま数分リラックスしていました。そして礼儀正しくするため風呂の栓を抜き、すべてのお湯を排水させました。しかし次の日の朝、家族皆が同じお湯につかるので、湯船につかる前にきちんと体は洗い、湯船につかった後も排水しないよう丁寧に注意を受けました。私は大変恥ずかしいことをしたと思い、その当は単なる馬鹿な外人だと反省するしかありませんでした。
翌朝、私は台所の方から来る何だか脂っぽい魚の臭いで起きました。私は中西部出身ですのでたくさんの魚を食べる機会はこれまで殆どありませんでした。朝から家中に広がるその魚の臭いは私にとってはとても気持ち悪いものでした。結局私は1階へ降り、テーブルにはご飯、焼き魚、味噌汁、見た目の変な調理済みの野菜、そして漬物などが既に置かれていました。無論、それらがどんな味がするのか見当も付きませんでした。“おはようございます”とイナキさんは私に挨拶してくれ、直ぐにその意味はGood Morningだと分かりました。ただその瞬間においても朝の8時というこの時間にこんな魚料理でもてなされるとはありえないことだと思わざるを得ない状況でした。そんな私でしたが、救われたことに、テーブルの片隅に2切れのアメリカンスタイルの食パントースト、冷たい目玉焼き、2つのソーセージが置かれていました。また西洋スタイルの紅茶も置かれており、何だか突然私は天国に来たような気持ちになりました。私は全てを食べつくし、その後突然、イナギさんが英語で話しかけてくれました。私は彼に“なぜ昨日は英語を使わなかった”のかと尋ねると、彼は“それは君が日本語を勉強するために日本に来ているからです。ただ今の君の英語力では苦労することもあると思うので、何か分からないことがあれば英語で聞いてください”と答えてくれました。後で分かったのですが、イナギさんは地元の高校で英語の教師をしており、彼の英語はすばらしいものでした。
私の名古屋での2日目は家の近所を探索することでした。最初私は徒歩5分圏内に何があるのかを把握するため近所を散歩してまわったのですが周りの人たちがこっそりと私を見ている何だか不快な視線を感じました。通りを挟んだ家の向かいにはパチンコ店がありました。そこで勝利するとプラスチック製の小箱をもらい中にあるペン1本が500円に相当すると聞きました。しかしそのパチンコ店の中といったら大変なもので、鼓膜を突き破りそうな音と言ったら凄まじいものがありました。パチンコ店を出て1時間は耳鳴りがやまず、服に付いたタバコの臭いも消えませんでした。
近所の子供たちは私との会話に特に恥ずかしさを感じていないようでした。私は指差しされるか、又は“外人だ。外人だ。”、“アイ ハブ ア ペン。マイ ネーム イズ タロー”といった決まり文句を投げかけられるのみでした。名古屋は日本でも当時第4の大都市であったのですが、地下鉄など私以外に外人を見かけることはなく、何だか1988年の名古屋において私は外国の地に迷い込んだ一羽の鳥のような思いをすることもありました。今でも覚えているのですが名古屋滞在中、多くの人と会ったのですが、多くの場合、第三国の“外人”として自己紹介する以外ありませんでした。時に“私にはちゃんとした名前があるのに”と怒りを感じることもありました。しかしそこは我慢し常に笑顔で応対するように心がけました。
その時の日本滞在は約半年で、実にいろんな思い出話があります。ここでは話しきれないほどで、他の話はまた別の機会にとっておきたいと思います。ただ私の日本に対する思いは、今の私の日本そのものとの関わりも思えば充分言い伝えることができるのではないでしょうか。アメリカに戻ってからは日本人の友達を作れる程の日常会話はできるようになり、日本人の彼女もできました。そして最も重要なことは、約20年前のこの日本での生活が私の人生を変える促進剤となったということです。日本、日本文化を愛し、とりわけ、日本人には心地よい親近感を覚え、アメリカ人より親近感を感じることはしばしばです。さらに私は日本の哲学、文化、考え方に大変共感を得ました。外観上、日本はアメリカと似たところがあるでしょう。例えば日本にはマクドナルド、セブンイレブン、KFC、デニーズなどがあります。しかし一旦中に入ればその態度、サービスの違いは一目瞭然です。その日本文化は日本社会のあらゆる所で浸透しており、日本の精神を理解することが私の人生のテーマのひとつでもあります。恐らく話は極論になってくるかもしれませんが、私の妻は日本人で、子供たちも家では日本語しか使いません。そしてビジネスにおいては、殆どのクライアントは日本人で、私のスタッフも日本人です。また私はレストランも経営しているのですが、レストランの主要スタッフは皆日本人です。私は100人のアメリカ人より、100人の日本人と同じ部屋にいるほうが居心地良いと感じるといっても過言ではないかもしれません。あれから20年たった今、私はどことなく外人であることを忘れ、違和感なく多くの日本人クライアント、友人、そして家族と接しています。これら私の人生のあり方そのものは決して日本またはアメリカ文化どちらか一方を、もう一方の文化に融合させるものではありません。両文化の違いを理解し、明らかにし、日本の“出る釘は打たれる”という古いことわざを払拭する上でもうまく両文化をつなぐ架け橋とするものとしたいと考えています。そしてこれが私の人生最大のテーマでもあります。今ではそのゴールに日々多少なりとも近づいてきているのではないかと感じることはありますが、これは永遠のテーマでもあり、その目標に少しでも近づけるよう日々精進しているしだいです。
2006年12月9日 デビッド・シンデル