第6回 河野洋さん

「のっぽのおじさん」

名古屋で生まれ育った僕が、何故ニューヨークにやって来て、今でも好きな音楽を続けているのかと言えば、それはのっぽのおじさんとの出会いがあったからである。

中学1年の夏休み、僕は両親の友人宅を訪問がてら家族と軽井沢に滞在していた。そんなある日、兄がある特ダネを聞き入れにわかに興奮し始めた。どうやら外国人スターが近くのホテルに滞在しているらしい。兄貴の後をひょこひょことついていった僕はホテルから出て来たのっぽのおじさんと出会った。生まれて初めて間近で見る外国人だったと思う。兄は狂喜乱舞していたが、僕の目には単に背の高い異邦人にしか映らなかった。それでも、何と書いてあるかわからない彼のサインを見て、僕は未知の世界を垣間見ていたような気がする。

それから間もなくしてロックに目覚めた。そして、秋の学園祭で先輩が弾くエレキギターを見て愕然とする。「教科書には世の中にこんなカッコイイものが存在するなんて一言も書いてなかった。」そう呟いた僕は、クリスマスプレゼントにエレキギターを買ってもらおうと心に決めた。

年の瀬が迫ったある日、夕刊にのっぽのおじさんの記事が掲載された。凶弾に倒れこの世を去ったのっぽのおじさんとは、何とジョンレノンだったのである。さらに僕が学園祭で聴いた曲はビートルズのレットイットビーだったことがわかった。

エレキギターを手に入れた僕はすぐに猛練習を始めた。そしてビートルズのポスターを見てバンドがやりたくなったが、当時外国のロックを聴く同級生は皆無。ドラム、ベースができる奴などもちろん居なかった。となると方法はひとつ、脈がありそうな奴を説得し楽器を始めさせることだ。時間はかかったが、中学2年で念願のバンドを結成した。

ティーンエイジャーの頃はロックとバンド活動に没頭したが、音楽を続けるにつれ外国への思いが募っていった。22歳になった僕はついに5ヶ月にわたる米国横断、欧州縦断の海外一人旅を体験する。世界に魅了された僕は次に25歳までに海外進出をと目論むが、24歳の時に思いもしない人生の転換期を迎えることになる。結婚である。運命のいたずらか、僕のバンドのライブを見たという女性と初めてデートをした僕は、その日から4ヶ月後には彼女と入籍し、8ヶ月後には米国に再上陸していた。新居は妻が生まれたニューヨークである。

新しい生活に慣れる間もなくロックバンドに参加した僕は、怒濤のライブ活動、さらにバンドは当時全米No1ヒットを出した某バンドのプロデューサーとレコーディングする機会に恵まれミニアルバムを完成させる。うち一曲は全米でリリースされたオムニバスCDにも選曲されたが、そう簡単に話は進まない。予期せぬバンドの崩壊が訪れた。

バンドがないとギタリストは寂しいものだ。バンドに見切りをつけた僕は180度方向転換し、一人でもできるクラシックギターを学び始めた。そしてメトロポリタンオペラ、NYフィル、アメリカンバレエシアターのシーズン券を手に入れ3年間リンカーンセンターに通い、同時に日本の伝統音楽、ワールド音楽までをも聴きあさり、音の世界は無限大に広がっていったのである。

しかし、そうこうしているうちに自分は他人の音楽にばかり感動していることにふと気がついた。自分にしかできないオリジナル音楽を追求しようと決めた僕は他のメンバーに依存するバンド形体を避け、自分が中心となり曲ごとに様々なゲストを迎えるという固定メンバー不要のレコーディングプロジェクト「MAR PROJECT」を誕生させた。そして、スコットランド、ブラジル、イタリア人の友人らの協力を得て、英、ポルトガル、イタリア語の三か国語が共存するオリジナルアルバムが完成する。さらにレコード会社を探す手間を省くため自己レーベルを設立しアルバムをリリースした。

人の出会いは面白い。中学1年の夏、僕が会ったのっぽのおじさんは一言も言わなかったのに、その後の僕の人生を決めてしまった。彼との出会いから25年が経過したが、今も彼は無言のままだ。しかし、国境を越え、言葉さえ無力にしてしまう彼の音楽は今でも人々の心に響き続けている。そんな音楽が作れたら、僕ものっぽのおじさんになれるのかもしれない。

Hiroshi Kono

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